創立者の遺志を引き継ぎ誕生したマクラーレン初の市販モデル「F1」 (1/2ページ)

創立者の遺志を引き継ぎ誕生したマクラーレン初の市販モデル「F1」

■マクラーレン創立者の遺志とスタッフからの敬意

前回はマクラーレンの創設者、不屈の人、ブルース・マクラーレンの話をした
今回はその娘であるアマンダ・マクラーレンが語ったエピソード。ブルース・マクラーレンの死からレーシングコンストラクタ−、そしてマクラーレン・オートモーティブまでを紹介しよう。

M8D

 去る6月、日本でマクラーレンスポーツシリーズがローンチに合わせて、創立者ブルース・マクラーレンの娘であり、マクラーレン・オートモーティブ社のブランドアンバサダーでもあるアマンダ・マクラーレンが来日した。

 父親であるブルースについて、自分が幼すぎて記憶が全くないとしながらも、こんなエピソードを披露してくれた。

アマンダマクラーレン
アマンダマクラーレン

「父が亡くなったことで、ブルース・マクラーレンレーシングチームも無くなってしまうとみんな考えており、工場にいるメカニックにも、(亡くなった)翌日は出社しなくてもよいと指示が出されました。それにもかかわらず、翌日、メカニックたちは工場に戻り、クルマに対して様々な作業を開始したのです」と話す。
「あるメカニックは、ブルース・マクラーレンモーターレーシングは決して無くなることはないと話したそうです。これはまさに、私の父でもあるブルース・マクラーレンへの最大の評価だと受け止めることが出来ました」

 結果からいえば、ブルース・マクラーレンレーシングチームはその後も存続。フォーミュラ1(F1)をはじめCan-Amシリーズなどで大活躍を果たしたのはご存知の通りだ。更には、1981年に、現在CEOを務めるロン・デニスを迎え入れてからもその躍進を留まることはない。
現在は、1980年代のコンビを復活したマクラーレンホンダとしてフォーミュラ1を戦っている。

創立者の市販車への思いを「F1」でついに実現

 レーシングコンストラクターまで作ったブルース・マクラーレンには、ひとつの夢があった。それはロードカーを作りたいというものだったとアマンダは語る。実際に「M6GT」を計画し、プロトタイプを自らドライブしていたが、残念ながらブルースの死によりその夢は消え去った。

幻となったM6GT
幻となったM6GT
F1
運転席を中央に配した3人乗りスーパーカー「F1」

「しかし、マクラーレン・オートモーティブを通じて、まさに父の夢がかなえられているように思います」とアマンダ。
それは1993年「F1」の登場だった。
1988年、同社CEOであるロン・デニスとカーデザイナーでありフォーミュラ1をはじめとしたレーシングカーなどの設計を得意としていたゴードン・マーレーは、フォーミュラ1レーシングチームが開発するに相応しいスーパーカーとはどういうものか。そこから考えはスタートしたという。

 ゴードン・マーレーは、これまでのスーパーカーの既成概念に囚われず、また、目の前にある最新の素材やテクノロジー、パフォーマンスは、時間が経てばすぐに最新のものではなくなると考えていた。
つまり、自分たちが技術的に不可能と思った理想でも、必ずや解決できるという信念のもとに、理想とする究極のスーパーカーの開発のためには絶対に妥協はしないことを取り決めた。
そして、“20世紀最後の工業製品”として、10年、20年後にも見劣りしない究極のクルマ(=超高性能にも関わらず、快適性や実用性も損なわないクルマ)を目標にF1は開発されたのだ。

 その結果、独特のセントラルドライビングポジション(横3人がけの中央が運転席)で、1200kg未満の車重と、636psを誇る自然吸気V12エンジン(当時のスーパーカーはターボエンジンが主流だった)。そして最高速384km/hのスーパーカーが誕生したのだ。

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